祖母に
漫画家を目指している今
漫画を描くためにほしかった万年筆を、「ほしいなぁ」と言ったぼくの一言を覚えてくれていて、誕生日プレゼントにしてくれた。
母に
57年間。そしてこれからも。
母は、うそも方便(だったと思います)で、娘のあるがままを認めてくれました。同時に、幼いながらに「あきらめたらあかん」というようなメッセージも母の言葉に感じました。バカ正直なりの覚悟とでもいいましょうか。「ンネーー母さん」。この一分に出会った時、息が止まりました。50年前の鍵で50年後の扉が開いたようでした。母の新年が、人類発祥の地から時空を超え、目の前に現れたという感慨がありました。辛い闘病生活の中でも、周りの人たちに感謝を届け続けた母でした。「どんな状況にあっても生きていく道はある」。母からもらった「ひとつ」は宝物です。今、「ん」から始まることはあると信じ、父の介護をしています。
86才になるおばあちゃんに
いつも
小さい頃からかわいがってくれたおばあちゃん。遠く離れていても手紙を送ってくれます。そんなおばあちゃんに“ありがとう”を伝えたくて、いつも手紙の返事を書いている時のような気持ちで書きました。
お父さんに
私が中学生の頃、お父さんに怒られるといつも、「本当の親じゃないくせに」と反抗していたけれど、お父さんは今まで一度も「自分の子供じゃない」なんて口にせず大切に育ててくれました。
私は中学生の頃、お父さんに怒られる度、「本当の親じゃないくせに」「本当のお父さんじゃないくせに」と反抗していましたが、そんな私に対して一度も「自分の子じゃない」なんて口にせず大切に育ててくれたお父さんを思うと感謝の気持ちでいっぱいになりました。血のつながりのない私やお姉ちゃんを自分の子として愛するのにお父さんはどんな気持ちだったんだろう…「本当のお父さんじゃない」「本当の親じゃない」と私が言ってしまったと時、お父さんはどんな気持ちだったのだろう…と考えると涙が止まらなくなりました。
親父に
子供だった頃、そして大人になってからも
お母ちゃんに暴力をふるったり、身勝手な生き方をして家族に苦労を強いたけど、でも子供の頃、たくさん忘れられない思い出を作ってくれました。
お世話になった石渡新聞店の御主人に
私が小・中学生の三人の子供を連れてその町の小さなアパートに引越して苦労していた時に
新聞配達を始めた私に父親のような優しい眼差しを向けて下さいました。そして日々心暖まる親切を示して下さっただけではなく、その土地で暮らした三年の間、他の三人の方々と共に「中村を守る会」を作り「困ったら俺達が守るから」と励まして下さいました。言葉だけでなく、毎月町の小さな食堂に私達親子を招待して、鍋焼うどんを食べさせて下さったり、我家の入口に食品の入ったダンボールを置いて下さったりしました。
娘に
幼い時から高校卒業まで私達(親)の側にいてくれた十八年間
娘が三女の時夫(父親)は中途失明しました。母親が働いていたので娘はいつも寄り添ってくれました。白杖をつく父親のまねをしてからかわれたり、思春期には父親と歩くことに抵抗があったようです。でも娘はいつも優しく介護してくれました。介護福祉士になり介護の仕事をするようになり「お父さんを介護したことが役立っている」と言っています。夫は亡くなりましたが「ありがとう」とその時まで娘への感謝の気持ちを言いました。娘からたくさんの幸せをもらいました。ありがとう。
夫
いつも
私達は今年で結婚30年、その頃はデジカメや携帯もなく帰国して写真を現像してがっかりする私に夫が言ってくれた言葉。忘れていたわけではないのですが、子育てや私の親の介護など、経済的にも時間的にも余裕がなくあきらめていました。節約家の夫(ペットボトルにお茶を入れて出社します)が日々コツコツと貯めていてくれたのだと思うと、涙が溢れて止まりませんでした。